「いだてん」主人公の金栗四三は箱根駅伝の生みの親

「いだてん」主人公の金栗四三は箱根駅伝の生みの親

NHK大河ドラマ「いだてん」を盛り上げていくために、今回は主役の金栗四三について調べてみたいと思います。
史実を知ると、ドラマの時代背景が分かってきますので、より感情移入してドラマを楽しんで頂けるのではと思います。

金栗四三、生い立ちのまとめ

明治24(1891)年に熊本県、現在の玉名郡和水町(高校駅伝の強豪、福岡県の大牟田高校がある大牟田市の東側)に生まれ、旧制中学(現在の高校)を卒業すると、東京高等師範(現筑波大)へ進学します。

四三が東京高等師範に入ったのは明治43(1910)年。
ドラマの中で、歌舞伎のメイクのように顔を真っ赤に染めながら、当時の世界新記録でストックホルムオリンピック予選を勝ったのは、翌年のこと。

さらにオリンピックに行くのは明治45(1912)年。
ドラマでは相変わらず、熊本弁も抜けず、純朴な青年そのままに描かれていますが、実際はすでに上京して3年経っていたんですね。

ストックホルムオリンピックでは調整不足も重なったのでしょう。
日射病になり途中棄権。

ただし途中で行方不明になってしまったことで、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という訳の分からない記録で最下位扱いだそうです。
この記録については、後に逸話があり、昭和42(1967)年ストックホルムオリンピック開催55周年記念式典に招待され、競技場をゆっくり走り、特別に用意されたゴールテープを切り、それにより「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされたそう。
その時間が54年~などというとてつもない記録になったわけですね。

数字だけ見ると「なんだこのとてつもない凡記録は!」となりますが、背景にはスウェーデンの粋な計らいと、そうさせた四三の人柄が見えてきます。

ストックホルム大会に共に出場した三島弥彦は大会後、スポーツ界からは身をひきましたが四三は、次のベルリン大会こそ第一次世界大戦で大会そのものが中止で参加できませんでしたが、ストックホルムから8年後の大正9(1920)年、アントワープ大会、さらに大正13(1924)年のパリ大会にも出場。

実際のところマラソンの実力はどうだったのか?
と気になりますが、ベルリンの前に行われた大正3年(1914)の第2回陸上競技会選手権で、東京府女子師範学校(現東京学芸大)の地理の教師になっていた四三は、これに出場。

2時間19分20秒3の世界新記録を再度打ち立て、ベルリンが開催されていればメダルも狙えたのではと言われているそう。

実際アントワープでは、終盤まで5番手と入賞を狙える位置につけたとのことですから、マラソンの実力は当時の世界でトップクラスに位置したことは事実なんだろうと思います(結果は16着)。

パリではすでに選手として旬を過ぎてしまっていたか、ストックホルムと同じく途中棄権となり以降第一線からは身をひいたようです。

ちなみに2時間19分の記録を出した年、ドラマで綾瀬はるかさんが演じる春野スヤと結婚しています。

さらにアントワープ大会のあった年には、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、四三は大会開催に尽力したとされます。
ちなみに記念すべき第1回の箱根駅伝優勝チームは、四三の母校、東京高等師範でした。

四三は、ドラマで冷水を浴び、身体を鍛えていましたが、その甲斐あってか長寿を全う。
ドラマ後半戦の昭和39(1964)年の東京オリンピックでは70歳前後。
昭和58(1983)年に故郷に近い玉名市で92歳で息を引き取ったそうです。

東京オリンピックではマラソンの円谷幸吉が銅メダルを獲得。
四三が「黎明の鐘」になったことが身を結んだわけですね。
ちなみにこの大会では、日本は金メダルを16個獲得する大活躍をしました。

お子様、お孫様にも恵まれ、今もそれぞれの道でご活躍されているそうです。

東京高等師範学校と嘉納治五郎

四三が入学した東京高等師範学校ですが、四三の生まれた年に校長を務めたのは元会津(現福島県)藩士の山川浩。

大河ドラマファンの方であれば記憶に新しいところと思いますが、平成25(2013)年に放送された「八重の桜」で玉山鉄二さんが演じた役の方ですね。
余談ですが、山川は会津の仇を討つと意気込み、西郷隆盛の起こした西南戦争では陸軍中佐として九州に渡っています。

「いだてん」で校長を務める嘉納治五郎は、山川の2代後で3回務めました

四三と出会うのは3度目の校長時代(1901年~1920年)です。

ちなみに嘉納治五郎は万延元(1860)年に現在の神戸市東灘区で地元で名の通った名家で生まれ、嘉納家は幕末に勝海舟の後援者でもあったそうです。
神戸で勝海舟とくれば、坂本龍馬との神戸海軍操練所ですが、これは1863年の話。
もしかすると、龍馬と治五郎になにがしかの接点があったかもしれませんが、まだ3歳の赤ん坊ですから記憶にも残っていなかったでしょう。

四三自身は明治維新とは関係ありませんが、関わる方には多くその時代を生き抜いた人たちがまだ大勢いた時代でした。

金栗四三と同郷の親友・美川秀信

ドラマで、同郷の友人として描かれている夏目漱石好きの美川くん。

彼も実在した人物で、美川秀信(勝地涼さん演)と言いました。
「金栗氏、金栗氏」の呼び方やコミカルな演技が序盤のいいスパイスになっていますね。

彼はドラマで四三のオリンピック出場を、陰からコソッとみてましたが、実話では高等師範は1年で去っていたそうです。
勉強にはあまり集中することなく、都会での学生生活を楽しんでいたのでしょう。
ドラマでも浅草の遊女、小梅(橋本愛さん演)に夢中になっていってますが、実際のところも、新しい物好き、好奇心旺盛な青年だったそうです。

2年生に進級できなかったでそうです。

ちなみに美川くんの晩年などはよく分かっていません。

リアル陸王ことハリマヤシューズ

四三は競技中、足袋で走っていましたが、これは実話でピエール瀧さん演じる、ハリマヤのオヤジさんこと、黒坂辛作も実在しました

ただ、ドラマではチャキチャキの江戸っ子ですが、実は兵庫県姫路市の出身だったそうです。

四三の要望を受けて、辛作が試行錯誤した足袋は、その後多くのランナーも使用するようになり、昭和11(1936)年のベルリンマラソンでは日本統治下だった朝鮮半島出身の孫基禎もこの足袋を履いてなんと金メダルを獲得しています。
足袋が世界を獲ると言うドラマ「陸王」さながらのストーリーは時代を超え、シューズとしても陸上選手が愛用した「ハリマヤシューズ」として一世を風靡します。
しかしバブル期に、多角経営に失敗。
今は残念ながら会社も残っていないそうです。

古今亭志ん生について

ドラマで若き志ん生こと、森山未來さんが演じる美濃部孝蔵。
彼は実際に早くから酒や賭博に溺れた「ダメ青年」だったそうですが、実際は菅原道真の子孫を称する、徳川将軍家の旗本が実家と相当な名家
三島に本来匹敵する名門のお坊ちゃまだったわけです。

彼は明治23(1890)年に東京で生まれ、昭和48(1973)年に83歳で亡くなりました。

実際の落語との出会いなど、志ん生については少し創作が多いようですが、まぁそれは主役ではないですしご愛敬といったところでしょうか。

東京での四三の足跡

私も「いだてん」回りはしたことはないのですが、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅周辺に確実にその息吹があるようです。
ちなみに足袋の播磨屋は今はありませんが、その店があった場所に「金栗四三足袋発祥の地」という石碑があるそうです。

さらに、東京高等師範も当時の校舎が近くの筑波大東京キャンパスとなっています。

茗荷谷は私もあまり行ったことがないので、一度落ち着いて街を散策し、何か発見があればこちらで報告させて頂きたいと思います。