いだてん美川くんもお気に入り「夏目漱石」は生粋の新宿っ子

いだてん美川くんもお気に入り「夏目漱石」は生粋の新宿っ子

今、当ブログでNHK大河ドラマ「いだてん」を盛り上げよう企画をよく実施させて頂いていますが、そのドラマの中で金栗四三の同郷の友人・美川くん。
彼が劇中で常に読んでいる夏目漱石ですが、実はあまり史跡などと縁の無さそうな東京新宿と大きく縁のある人物だってご存知でしょうか?

漱石は新宿早稲田のあたりで生まれ、そして最期も新宿早稲田周辺で迎えました。
今回はそんな新宿っ子な夏目漱石について少し調べてみたいと思います。

新宿ゆかりの文豪・夏目漱石

徳川家康家臣の子孫として生まれた漱石

漱石が生まれたのは江戸時代末期
徳川慶喜が大政奉還を行い、明治の世に変わる直前の慶応3(1867)年のこと。
今の新宿区牛込の辺りの名主(農家の金持ちではなく、江戸幕府の奉行所から役割を委任されたある程度の権力もあったそう)、夏目直克の末子として生まれたと言われます。

夏目氏は元は三河(現在の愛知東部から静岡西部)で徳川氏に仕えた武士と伝わり、先祖の吉信は、家康が九死に一生を得たとされる、武田信玄との三方ヶ原の戦い(1573年)で、苦境に陥った家康を助け、その身代わりとして戦死したとされます

漱石に話を戻しますが、幼少期に何度か養子に出されるなど、複雑な家庭環境の中で青春時代を過ごしたそうです。

正岡子規との出会い

漱石は12歳の時に、府立一中(現在の日比谷高)に入学。
第一高等学校(現在の東京大教養学部および千葉大医学部&薬学部)受験をめざしますが、学びたい学問がなかったことなどで退学。

二松學舍(現在の二松學舍大)に入学も、それもすぐ辞め成立学舎(後に廃校)へ入学します。

この成立学舎時代に親友・正岡子規と出会ったそうです。

夏目漱石と「いだてん」の接点

漱石は明治23(1890)年。
23歳の年に1886年に創設されたばかりの、東京帝国大(現在の東京大)に入学

学業では順風満帆そうですが、この頃は多くの兄弟を亡くしていたそうです。

1892年頃から東京専門学校(現在の早稲田大)の講師を務めだし、1893年、卒業すると東京高等師範学校(現在の筑波大)の英語の講師になったと言われます。
東京高等師範学校と言えば、NHK大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の母校ですね。
ちなみに金栗が入学するのは1910年。
漱石が教師を辞めて松山に行ったのが1895年のため、二人に接点はありませんでした。

しかし、「いだてん」で役所広司さんが演じる嘉納治五郎は3回高等師範学校の校長を務めていたのですが、その時期は1893年から1897年なので、実は嘉納先生の「部下」として夏目漱石は働いていたことになります。
ちょっとした縁はあったと言えるかもしれませんね。

英語講師から作家へ

東京を出た漱石は、正岡子規の故郷松山へ行き、その後熊本などと地方の学校で英語教師を行っていました。
1895年~96年の頃で、この頃に見合いによって鏡子と結婚をします。

しかし鏡子自身(広島出身のお嬢様)が慣れない生活に根を上げ、自殺未遂も行ったそうで漱石もかなり精神的に参っていたともされています。

漱石は1900年に文部省の命により、イギリスへ留学
帰国後1903年に帰国。
第一高等学校と東京大で講師の仕事を始めます。

無粋ですが年収は合わせて1,500円ほど。
現在の貨幣価値で言えば1,000万円は軽く超える収入があったようです。

しかしこの頃の漱石は、相当精神的にやられていましたが、高浜虚子の勧めで、1905年に処女作となる「吾輩は猫である」を執筆
言わずと知れた漱石の代表的作品がここで誕生することになります。

朝日新聞と漱石

「吾輩は猫である」であるを発表した翌年、続けて「坊ちゃん」を発表すると、明治40(1907)年にまだ創刊してそれほど時間の経過していなかった朝日新聞(1888年創刊)に入社
プロの作家として生きていきます

この時、朝日新聞が払った月給は200円と言われ、今の価値で言えば年収で3,000万円前後とも考えられるそうです
まぁ、今であればこれほどの大作家であれば、印税などでさらに稼げていると思いますけどね(苦笑)

この頃から木曜会という会合を開くようになり、それに参加していた人物を門下生と呼ぶそう。
その中には「羅生門」などで有名な芥川龍之介も含まれていました

ノーベル賞受賞博士との接点

漱石は明治43(1910)年頃から胃潰瘍を患っていたようです。
またノイローゼなど心の病も併せ持ち、晩年は身体の不調に長く悩んでいたとされます。

実はこの胃潰瘍でも、後の日本を代表する偉人とちょっとした接点が生まれます。
翌年、大阪の湯川胃腸病院に入院することになるのですが、関西と湯川という2つのキーワードでピンと来られた方も多いのではないでしょうか?

そう京都出身で第二次世界大戦後の昭和25(1949)年、日本人初のノーベル賞(物理学)を受賞した湯川秀樹です。
漱石の入院した湯川胃腸病院の院長が湯川玄洋といい、この方の娘さんスエとご結婚されたのが湯川博士になるわけです。

今の医学であれば胃潰瘍なら救われたと思いますが、まだまだ医学も当時は限界が今に比べると低かったでしょう。
胃潰瘍を持病に抱えた漱石は、その後も病に苦しめられ、大正5(1916)年に今の漱石山房記念館にあった自宅にて49歳の若さでこの世を去りました

漱石山房記念館の拝観料など

詳しくは公式サイトでご確認をお願いしたいですが、月曜日が定休日。
10時から18時まで営業(入館は17時半まで)。
併設のカフェは17時半までの営業となっています。
大人は300円、小中学生は100円。

新宿早稲田に残る夏目漱石の足跡巡り

夏目漱石生家跡

漱石生誕の地にある石碑

漱石山房記念館

漱石が晩年を過ごした地にできた記念館