金栗四三の恩師、嘉納治五郎は神戸のおぼっちゃま

金栗四三の恩師、嘉納治五郎は神戸のおぼっちゃま

大河ドラマ「いだてん」で主人公・金栗四三の幼少期からの憧れの存在として、そして上京後は進学した東京高等師範学校の校長。
さらに1912年(明治から大正へ変わった年)のストックホルムオリンピックでは、金栗四三、三島弥彦らと共に、日本選手団の団長として海を渡った嘉納治五郎。

ドラマでは役所広司さんが、味のあるキャラクターを演じていますが、今回はその嘉納治五郎の生涯を調べてみました。

嘉納治五郎の生い立ち

神戸っ子として誕生

治五郎は江戸時代、万延元(1860)年に現在の神戸市東灘区御影で、地元きっての名家に生まれました

徳川幕府は14代将軍・家茂の時代です。

嘉納一族には菊正宗や、白鶴などの創業者も含まれるそうで、嘉納財閥として一族は相当な富を出していたことが想像できますね。

ドラマでオリンピック予選を開く際、三島弥彦に頼っていましたが、実家に協力を懇願するという選択はなかったのでしょうか(苦笑)
三島家も相当な名家ですが、嘉納家も負けず劣らずの名家ですから(苦笑)

ドラマで10万円の借金を抱え、「10万の男だぞ!私は!」なんて治五郎が吠えるシーンがありましたが、10万とは今の貨幣価値で言えば数十億円だそう・・・
さすがの名家でも、これは肩代わりできるような価格ではないでしょうけど(汗)

幕末最大のヒーローとの接点

治五郎はそのような莫大な富を持つ家に育ちました。
治五郎の父・次郎作は幕府の廻船方御用達として、和田岬砲台建造を請け負い勝海舟の後援者になっていきました

神戸と勝海舟と言えば、神戸海軍操練所
坂本龍馬です
1864年から65年までの間の時代で、当時、治五郎はまだ今なら幼稚園児
ひょっとすると会っていたりする可能性もありますが、記憶にないレベルでしょうね。

しかし、治五郎と勝海舟&坂本龍馬。
幕末のヒーローとちょっとした接点があったようです。

上京そして柔道の生みの親へ

治五郎が10歳になる1870年、明治政府に父・次郎作が招聘されたことをきっかけに上京
明治10(1877)年には現在の東京大に進みます
その間、当時は漢学の塾だった二松學舍(現在の二松學舍大)でも学んでいます。

在学中に、体力の弱かった自身を顧み、それでも強い者に勝てる柔術に関心を持ち探求。
東大を卒業する1881年頃に柔道を確立したそうです。

そう、日本の国技とも称される柔道はこの時誕生するんですね。
※柔道という単語はすでに以前から存在していたようで、当時は嘉納流柔術と呼ばれたそうです。

そしてこの柔道がきっかけで、三島弥彦の父・通庸(みちつね)とも接点が生まれます。
明治21(1888)年、治五郎28歳頃の年に、警視庁の警視庁武術大会に自身が興した講道館が参加
柔道の力を見せられた通庸は、以後警視庁の必須科目に取り入れることとなります

この時の警視総監(警視庁のトップ)が弥彦の父・三島通庸でした
弥彦は1886年に生まれるので、まだこの時点では二人の間に接点はなかったでしょう。

3度の校長を務めた東京高等師範学校

治五郎は教育者としても活躍し、故郷神戸の名門・灘高設立にも一役買っています

そして「いだてん」で務める東京高等師範学校の校長ですが、3期務めています

まず1度目は1893年。
この時は4年ほど務め上げました。
ちなみにこの時期、東京高等師範学校で夏目漱石が講師を務めています。

そして2回目は1度目の校長を辞めてすぐ。
1897年に。
この時はわずか半年ほどでした。

そして、金栗四三と出会うのは1901年〜1920年までの間。
ドラマはこの時代ですね。

オリンピックへの想い

明治42(1909)年に東洋初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員になるなど、オリンピックとは深い関わりがあり、金栗四三、三島弥彦が日本人として初めて出場したストックホルムオリンピック(1912)年には団長として同じく海を渡りました。

そして実は幻の東京オリンピックがあったのが、昭和15(1940)年
1936年のIOC総会で招致に成功し、その開催を夢見たまま1938年に77年の生涯を閉じました

治五郎最後の大仕事は、戦争激化により返上され実現しませんでした。

この悔しさが、昭和39(1964)年の東京オリンピックへと続いていく訳ですね。

嘉納治五郎の子孫

悲願の東京オリンピック招致に成功し、そのオリンピックで柔道を正式種目に押し上げたのは、次男の履正。
長男の竹添履信はなんと洋画家だったそうです。

ちなみに冒頭でお話した華麗なる嘉納一族。
今も菊正宗の社長は嘉納さんで、白鶴も嘉納さん。
嘉納財閥は健在ですね。

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